昭和44年3月9日 夜の御理解 【入力者:岡村和一郎】
信心は、え、どこの端からでも、おー(いよいよ?)と吸収するというか、頂くことができるんですけれども、それが、もうどういう素晴らしい、いー、いー、例えば、修行がそこにありましても、根が枯れておったんでは、それを吸収することはできません。もうどこの端からでも頂こうとする、おー、また頂かなきゃ馬鹿らしいというくらいな意欲がね、えーお互いなからにゃいけんと思うんですよ。
今日は、あのー、北九州あのー、信徒の、おー、信徒幹部、幹部信徒の、おー、信心研修会が(萩?)の教会でございました。えー、各教会から、ま、幹部の方達が出ておったそうです。こっからもちょうど十名、えー、総代、幹部の(?)参りまして、(んーんっ?)、夕方皆帰って見えられましてから、あー、秋永先生達が、あとまた、教会(?)室に残って、あとの、ま、話し合いがあるからと残って、(?)今帰って見えられました。
そしてまあ、しばらくその共励会の模様をいろいろと、お話をされてから、いろいろ、まあ、感じられたことですね。もうほんとにあの、合楽でおかげを受けておるということを、頂いておる(こと?)の教えというものがです、どんなにあのー、有り難くて、まあ、深い意味合いのものかというようなことを、まあ分かってきたと、こういうわけなんですけれども。
私は思うんですね。やっぱどこにあってですね、もう合楽にないものはやっぱりあると思うんですね。(?)どこの端からでも、やっぱそれを頂いてこなかったら、合楽で頂きよると(や?)だけではね、同じことになるんです。
異口同音に、そういうふうな(意味?)のことを、(もう?)言われておりましたが、あー、皆さん帰られた、後に秋永先生帰って見えて、「はあー、今日は先生、おかげ頂きましたー」というんですね、一番はじめそうなんです。
全然違う。もーうあの他の人達には、もういわば、まあ、あー合楽で信心のけいこしたってか、もうとてもつまらん、といったような感じなんですね。もうおかしくて、といったような感じで受けて来てるわけですけども、秋永先生は開口一番、「今日はおかげ頂きました」と、こう言うのである。ね。
それでまあいろいろ、まあ合楽の素晴らしさことも分からしてもらうんですけれどもです、うーその中にね、その、もう今日は行って、行き甲斐があったというものを頂いて来てるからこそ、おかげ頂いたと、こう言うのですね、全面的にどうってことじゃないでしょうけれども、結局、私はその意欲の問題だと思うですね。
どこの端からでも頂いてこなければ馬鹿らしい、転んでもただでは起きないぞ、といったような私は信心、うーん、というものは、あー、意欲を持たなければいけない。どこの端からでも吸収できる。そんためにはいつも(どう?)、いわゆる末梢神経にいたるまでがです、生き生きとしとらなければ、吸収することできません。私もその秋永先生の話し聞きよって、私自身もおかげ頂いた。ね。
今日はあのー、うーん、教務所の所長、森先生が見えとった。所長のお話の中に、今まで聞いたお話の中では一番、まあ有り難いお話だったというお話の中にです、まあ一言、二言、ほんとにあのー「おかげ頂きました」ということを頂かして頂く、頂いた中にですね、とにかく、所長の話した中に、にーまあ先達(ですかね?)、まあお徳を受けられた先輩の先生方が言うておられることの中に、「信心は徹することだ」と。ね。
私は思うですね。あの、徹し、徹しぬかなければいけんです。このことだけは間違いがない、このことだけは神様受けてくださりよる、このことだけは本当なことだと、例えばここに頂いたことをです、ほんとに徹しぬかなければね、それをしだごだにしたっちゃダメです。本当なら交流するはずがありませんもの、徹しぬかなければ。通うはずがないですよね。
どんな素晴らしいことをしよってもです、それを途中で尻切れトンボに切れたんじゃ、もうダメです。ね。ほんとに、これは、私にはそういうふうなことは、よう言うたことないですが、私自身それを思います。「これだけは」と徹しぬくものがなからなければ、やはり、えー先達の方達がおかげを受けられ、徳を受けられておる(のだけは?)、そういう意味合いにおいて、何かを徹しぬかれた方なんです。
あれほどの信心ができながら、ね、9分9厘まで行っとって後の1厘で向こうに到達しきっとらんから、もう到達しとらんと同じこと。徹しぬかなければね、交流してくる(の?)ならしませんよ。ね。「これだけは」と。ね。それが、だんだんそう徹しぬくことがですね、だんだんこう広い範囲になってくる。間違い、いよいよ間違いのないものに、うー大きくなってくるということに、(また?)いよいよ有り難いものになってくるでしょうけ(れ?)ども、ね、どんなにささやかなことでもよい、一言でもよいからです、それに信心とは徹しぬくことだと。
私それで聞かして頂くなら、そうどこじゃないな。今晩そのことを一つ皆さんに聞いてもらおう。ただその一言を私は今日は聞いてもらおうと、こう思ったんです。皆さん、どうでしょうか。「これだけは」と徹しぬかれたことがあるでしょうか。徹しぬかれておるようであるけども、どこへんかでしだごだになるようなことはないでしょうか。ね。それがまた徹しられよう(とじゃ?)ダメ、徹しぬかなければダメ。
それを例を言うなら、限りがありません。ね。皆さんそれぞれにですね、「これだけは」と、(いうもの?)、信心とは徹することだと。これは、んなら先の、おー先輩達がです、ね、その、ええ、先輩達が私は残しておられること(と思う?)。ね。
そこんところを、どうでも一つ皆さんが徹しぬいて、おかげを頂いて頂かなければならんと思うのですよね。徹すること。そこんところを一つ、おかげ頂かなきゃならん。どうぞ。